外国への淡い憧れ

外国への憧れは子どもの時からうっすらとありました。

父方の伯母が、8年ほど前に他界するまで、生涯ブラジルに住んでいました。
昭和真っただ中の子ども時代、年末の「紅白歌合戦」の時間帯には家族そろって
当時の「黒電話」を車座になって囲んでいました。

右が「黒電話」(昭和ですね!)後に我が家の電話は左のオシャレな?ミントグリーンのプッシュダイヤルになりましたが(^^;)
ちなみに電話機と受話器にフリルの可愛いカバーもついていました(こういうのも「昭和!」って感じです)

それは日本からしたら地球の裏側のブラジルにいる伯母に、1年に1度国際電話で話すためでした。
当時の国際電話はいったいいくらかかったのか・・・
私自身が小学生だったので親に聞いたこともないのですが、
「元気にしてるか?こっちはみんな変わりはないから安心して。達者で暮らせよ」
などと、家族みんなが早口で順番に話していた記憶があります。

1年に1度とは言え、きっと他を切り詰め、電話料金を気にしながらのことだったでしょう。
電話の向こうから聞こえる「あけちゃん?(小学生の私をみんながこう呼んでいました)大きくなったでしょうね?」
とても優しそうな、穏やかな声。
それが地球の裏側から話している声だなんてとても不思議で、でもとても興味深かった。
おばさんはどんな人で、ブラジルはどんな所で、どんな人がいてどんなことをしているんだろう・・・

伯母はカトリック信者で看護師でした。
日本からブラジルに渡った移民の人達や現地の人達の力になりたいと、飛行機もあったのかもしれませんが
船旅で何十日もかけて(私が聞いたところでは、3ヶ月近く?)ブラジルに渡ったのだと聞きました。

どれほどの覚悟だったのだろう・・・。
小学生の私はそんなことは思いつきません。

でも、当時家の欄間辺りにあったモノクロの大きな旅客船の写真は、子ども心にいろんなことを想像させてくれました。
昔の映画のワンシーンの様に、出港前、船に乗っている人達から伸びている何本もの紙テープが風になびいていました。

観光旅行が目的ではない事や、当時海外に行くと言う事がどれほど「非日常」で
家族とはいつまた再会できるか分からない「一大事」だったかは、その写真や1年に1度の国際電話から理解出来ました。

私が高3の夏、伯母が20数年ぶりにブラジルに渡ってから初めて帰国する事になりました。
確か1ヶ月ほどうちに滞在していたと思いますが、つつましい生活ぶりや考え方に母も私も衝撃を受けました。
小柄ですが、意思の強い女性という印象でした。

英語が好きだったので高校卒業後はその勉強がしたいと話すと、英語教育に強いカトリック系の大学を勧められましたが
余りお勉強は頑張っていなかったので、実現しませんでしたね(ーー;)
I should have studied much harder when I was a high school student.
「(過去に)~すべきだったのに(実際にはしなかった)」と過去の後悔や非難の気持ちを表現する例文は、こんな感じですね(^^;)

私が英国に留学したのは20代後半でした。
学生時代はそんな勇気も自信もお金もなかったのですが、子どもの時からの淡い憧れはずっと続いていました。
社会人として都内で独り暮らしをしながら働き、なんとか貯金も出来るようになるまで時間が必要でした。
職場にはとても恵まれました。有給休暇を頂いて2度、10日間程英国一人旅してから
今までの淡い憧れは強い願望になりました。もう旅行じゃ物足りない!英国に住みたい!
ホームシックは一度もなく、それどころか、できるだけ長く英国にいたいという気持ちを
両親に話して理解してもらうために数日間帰国した時は、逆ホームシック!
偶然にもそのほんの数日しか家にいない間、前述の伯母が2度目の帰国で両親の家にいました。

伯母は私にきっぱりと言いました。
「あけちゃんのお母さんは、あけちゃんが近くにいた方がずっと幸せ。そしてお母さんが
近くにいることがあなたにとっても大きな幸せになる」
長い間日本の家族から離れて地球の裏側で生活し、年齢を重ねてこれが最後の日本滞在だと
理解していた伯母。
コロナ禍の今は海外旅行もまだ現実的でないにしろ、コロナ禍以前は余程のことがない限り
安心して自由に海外へ行ける恩恵を享受できる時代です。早くその状況に戻ってほしいです。

2回しか会ったことのない伯母ですが、外国への淡い憧れもその後の強い影響も与えてくれた伯母。
伯母が天に召された連絡を受けたのが、長崎の大浦天主堂を訪れていた時だったのも
伯母からのメッセージだったように思います。

 

 

 

 

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